第二次大戦の戦中から戦後にかけてハイテク技術の拠点となった狛江の姿を2つの会社の写真や当時の関係者の講演を通して紹介する企画展「終戦前後の狛江の工業」(泉の森友の会・特定非営利活動法人k-press共催)が、7月15日から20日まで小田急線狛江駅北口近くの泉の森会館で開催される。会場では、当時の工場の姿を撮影した多数の貴重な写真や資料に加え、これまで眠っていた作詞家の西條八十がつくった工場歌と音頭をデジタル化して初公開する。また、16日には当時の社員による座談会が催され、工場内の様子やエピソードを通して戦時下や終戦直後の苦闘、復興に向けた歩みなどを証言する。いずれも入場は無料。
写真(展示写真の一部)=1940年代前半、東京航空計器狛江工場内にあった計器操作を学ぶための複葉機に乗る青年学校の生徒(写真提供、東京航空計器OB笹井博さん)
この催しは、狛江の街の発展に企業が果たした役割と歴史を市民の手で掘り起こし、次の世代に記憶を語りつごうと企画したもの。
狛江は、豊富な地下水と交通便の良さから昭和10年代半ばから精密機器など当時の最先端技術を持つ工場が次々と建設された。
展示では戦中から戦後にかけて狛江に会社があった東京航空計器株式会社(本社=町田市小山ヶ丘、資本金1億円)と株式会社日立国際電気(本社=千代田区外神田、資本金100億5800万円)を取り上げる。
東京航空計器は当時、川崎市中原区木月に本社があり、1939年に現在の和泉本町1丁目の土地約46,000平方メートルに寄宿舎付きの工場と学校を建設。航空機用の計器などの精密機械を開発、製造した。戦後は、川崎の本社が米軍に接収され、一時操業を休止したが、1946年に本社を狛江に移して業務を再開した。しかし、占領軍による指令で航空機用の計器などの製造が制限されたため、それまでの精密機械製造の技術を生かし、映写機、顕微鏡、カメラ用雲台などの製造に取り組んだほか、現在のファックスの前身にあたる模写電送装置を開発したり、爪切りも製造したという。1952年に、航空機用の機器製造の制限が緩和されると米軍や民間機の計器や訓練用の機械の修理や開発、製造といった本来の分野に復帰した。1983年には敷地の一部を売却、本社工場棟を建設して操業してきたが、2010年秋に町田市へ移転した。
日立国際電気は、当時の社名を国際電気株式会社といい、1941年に和泉本町4丁目の119,000平方メートルの土地に市内最大の工場を建設、主に通信機器の製造にあたったが、当時その技術は日本でトップクラスと言われた。戦後は、主力の通信機の製造・販売が困難だったため、さまざまな民生用製品の開発にあたり、養蚕で使う蚕のさなぎを殺す機械や木材乾燥機、業務用の電子レンジなども開発、製造した。その後、需要の高まりに合わせて通信機器の開発生産が本格化、南極観測船宗谷の通信機や現在の携帯電話の基礎となった自動車電話の開発なども行った。1966年に羽村市へ移転、跡地は都営狛江アパートになった。2000年に合併により現在の日立国際電気になった。
両社は戦中から戦後にかけていずれも途中で名前を変えた時期もあるが、狛江の発展に大きな足跡を残している。地域の人々に働く場を提供しただけでなく、商業や運送業など新たな仕事を生み出し地域経済を発展させた。また、設立当初には社内に高等小学校を卒業した少年を数年がかりで中堅技術者に育てる「青年学校」を設けたり、戦争中は軍需工場に指定され、近くの学校だけでなく全国から多くの学徒動員の若者が来て働いた。戦後も会社内に技術学校を設け、物づくりに貢献する若者を育てた。
会場では、両社が手がけた機器や青年学校の学生の寮生活、軍事教練、地域の人も参加した社内レクリエーションなど約2百数十点の写真をはじめ、青年学校の生徒を募集する戦前の求人票や参考書、学徒出陣の辞令、国際通信が開発した通信機を載せた南極観測船宗谷が持ち帰った南極の石など貴重な資料も展示する。
また、東京航空計器が1944年に戦意高揚と生産性を高めるため、昭和を代表する作詞家・西條八十と作曲家・久保田公平に依頼して制作したSP盤レコード「東京航空計器 狛江工場歌」と「必勝轉輪音頭(狛江工場音頭)」を会場内で流すほか、小田急線が高架複々線になる前に写した狛江駅から東京航空計器計器正門までの町の様子を紹介するビデオも公開される。
17日15時からは、同館3階のホールで、両社で働いていた笹井博さん、藤岡昇さん、江口茂男さん、藤井拓三さんを招き、会社の様子や街の人との関わりなどを語る。
展示時間は午前10時から17時。 入場は無料。
問い合わせは電話03-5497-5444泉の森会館。
写真((展示写真の一部、上から)=狛江市内にあった1960年代ごろの東京航空計器の全景(写真提供 : 東京航空計器)、1950年代前後の国際電気の全景(写真提供、日立国際電気)、1942年に国際電気工場内で行われた青年学校生徒の軍事教練(写真提供 : 国際電気OB飯野芳男さん)