国登録有形文化財の高津区久地341にある久地円筒分水は昭和16年建設以来65年間の経年変化によるコンクリートのひび割れや剥離などの劣化のため、現在補修工事が行われている。
写真(上から)=内側の円筒の下に八角形の吹き上げ口が少し顔を見せる。見学会のために仮橋が架けられた円筒分水。緑が豊かで静かな環境にある久地円筒分水(川崎堀方面)
工事のために水が抜かれるこの期間中、高津区が誇る産業遺構の昔を知ってもらおうと2007年11月27日から12月1日まで高津区主催で見学会が開かれた。
見学会は、円筒分水内部構造が分かるように仮設橋が架けられ、高津区からガイド役を委託されたニケ領用水ウオッチングホーラム会員のボランティアガイドによる丁寧な説明付きで行われた。5日間で約1300人が見学するほどの賑わい。次に水のない円筒分水は60年か70年後か。この機会に構造本来の姿を見ることができた貴重な見学会であった。
川崎市を流れるニケ領用水は、江戸時代に小泉次太夫により、多摩川から水を引き込み慶長2年から16年(1597〜1611)にわたり14年の月日を掛けて造られた。これにより米が増産された。しかし、渇水期には各村間で水騒動が起きた。
円筒分水は、水騒動解消のため多摩川から取水された水を、流量が変わっても耕地面積による分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16年に平賀栄治により設計、施工された。以後、多摩川の水は平等にニケ領用水に分配され、水騒動は解決された。
見学会中は水が抜かれた円筒分水の構造が見えるように特設された仮設橋から中心部の底、水面から7m下に多摩川から導水された水の噴出口を見ることができた。流水量毎秒1.5立方メートル。多摩川の水は平瀬川の下をトンネルで導かれ中央の円筒形の噴出口からサイホンの原理で水を噴き上げる。外側の円筒は、円周16m。内側は8m。円周の長さと灌漑面積の比率で水量が分配される。全体を100とすると、水量の多い順に、川崎堀77・根方堀15・6ヶ村堀5・久地堀3の割合である。見学のからは、構造の簡素さ・便利な大型機械のない時代、人力による作業で、丁寧な作業振りに感嘆の声が聞こえた。
高津区を流れている用水は川崎堀から来る流れである。現在の円筒分水は、ニケ領用水と共に農業用水・工業用水としての役割を終えたが、新たに環境用水として市民の憩いの散歩道などが整備されている。
見学会は終了し、敷地内には工事中のため2008年1月末まで入れないが、フェンス越に工事期間中、水のない円筒分水の姿を見ることができる。
市民記者・宮川光代様による「円筒分水見学記」、楽しく読ませていただきました。
ボランティアガイドを仰せつかった二ケ領用水ウォッチング・フォーラムの仲間として、大変に嬉しく存じます。
また内容が詳細で、ボランティアを実際にやった人でなければ分からない心遣いが感じられ、読み物としても秀逸なものでした。
もしこれを見学記の公式ページとするのであれば、以下の補足をお願いしたいところです。
①小学校3〜4年生が多数来場されたこと、そして実際にボランティアによるサイフォン実験に「自然の水が下から噴き上がるなんて信じられナ〜ィ!!」と叫んでいたこと。
②円筒分水上流にある二ケ領用水本川の取り入れ口と、そこから津田山をトンネルで越えてきた新平瀬川の底を潜って円筒分水に噴きあがる様子。
③もともとの工事の目的は、平瀬川の氾濫による水害から溝の口のまちを守ることにあり、その時にどうしても解決しなければならないのが灌漑用水としての二ケ領用水との共存であり、平賀はこれを伏せ越しの技(サイフォンの原理を使って)で解決し、返す刀で長年紛争の耐えなかった久地の分水を合理的に処理したのである。(でもその後も水争いはあったらしい)
川崎のインターネット新聞
川崎、狛江のインターネット新聞というのを発見。たまたま同じTypePadを使用し