川崎授産学園が地域貢献で初の園外作業:「柿生村・岡上村生誕100年碑」を修復

050902kinennhi4恩師に教わった技術でふるさとの歴史を再認識して——川崎市麻生区の福祉施設「川崎授産学園」の通所生と市民ボランティアが9月2日、麻生区役所柿生連絡所に設置されている「柿生村・岡上村生誕100年記念碑 柿生・岡上字名図」の修復作業を始めた。

写真=記念碑の修復作業をする川崎授産学園つつじ工房のメンバー

記念碑は、高さ170cm、幅160cmの黒と赤のみかげ石製。表面に柿生村・岡上村の字名と神社、寺、村役場や学校、分教場などを彫刻した高さ101cm、幅111cmの銅板が埋め込まれている。柿生村・岡上村は市制・町制制公布を受け、翌1889年4月に近隣の村を統合して誕生、50年後の1939(昭和14)年に両村とも川崎市に編入し今日に至っている。
碑の制作は、両村誕生100年と市制編入50年にちなみ、開発が著しいふるさとの歴史や生活文化などの記録を次の世代に残そうと地域住民らで組織した「柿生村・岡上村100年祭実行委員会」(中島豪一実行委員長)が実施した記念事業のひとつ。高津区在住の抽象画・銅版画家の立山崇さん(故人)に設計・制作を依頼し、1993年3月に建立した地域の貴重な財産だ。建立当時はピカピカだったが、10年以上風雨にさらされて表面が黒ずみ、最近は文字が読みにくくなっていた。

 村の生誕117(いいな)年にちなみ、記念碑や写真で柿生をPR

050902kinennhi3柿生・岡上村誕生から117年目にあたることし、「いいな(117)!『柿生』のまち」を合い言葉に同連絡所では、実行委員会などと協力して記念碑の修復や100年祭で集めた昔の写真を利用してインターネットギャラリーの開設や写真展の開催などを予定している。
2004年1月に亡くなった立山さんは、早稲田大学建築学科を中退して画家となり多摩美術大学教授や二科会評議委員務めた抽象画の重鎮。銅版画の先駆者として銅地の印刷や表面処理の特殊技術を開発、1981年に開設した川崎授産学園の草創期に、園生たちにその技法を伝授した。
こうした縁から「いいな『柿生』〜」第一弾となる修復作業は、障害者の社会参加活動として同学園が担当することになった。
作業は、彫刻を保護するために施されている銅板表面のコーテングをはがし、サビを落としてから酸化防止剤をかけるというもの。通所施設「つつじ工房」の19歳から52歳の銅板作品作業班7人が作業に当たるが、天候や園の日程なども考慮し、終了まで約20日を予定している。
初日の2日には、40、50代の男性5人が参加。炎天下のなか、マスクとビニール手袋をしてシンナーを染みこませ布で銅版のコーテング材をはがす作業を行った。参加者のなかには、立山さんから直接指導を受けた人もおり、恩師の作品の表面をひたすらみがく根気のいる作業に熱心に取り組んでいた。この日は、昼前に「光化学注意報」が出たため、作業は午前中の1時間で中断。ひと仕事終えた通所生は「きょうは暑くてたいへんだったけど、少しきれいになってよかった」とにっこり。050902kinennhi1jpg
記念碑は公道に面した門に設置されているため、同園でボランティア活動を行っている逢沢良子さん、小幡久美子さんら区内在住の30代から50代の女性7人が、期間中交代で交通安全の確認や作業をする人の体調などを見守るボランティアをする。逢沢さんらは「地域で暮らす人が支え合うことが大切。作業に直接かかわるわけではないけど、社会参加のお手伝いをしたい」と話している。
初日の作業を見守った中島実行委員長は「黒ずんで文字が読めなかったので、修復作業は本当にありがたい。柿生地区は新住民も増えており、きれいになった記念碑を見て、第二故郷として郷土の歴史や文化にふれてもらいたい。参加した人の輪と障害者が社会参加する機会が広がることを期待したい」と語っていた。
つつじ工房施設長の佐久間渡さんは「通所生が集団で街に出て仕事をするのは初めてで少し不安だったが、恩師の作品でもあり地域への感謝を込めて引き受けることにした。いい機会をもらい感謝しています」と話していた。

写真=上・つつじ工房のメンバーを見守る女性ボランティア(右)、下・作業前に記念写真に応ずる中島実行委員長(後列・右端)、つつじ工房の佐久間さん(後列左端)とメンバー、ボランティアら